ハリス・バーディックの憂鬱 ~ To read, or not to read ? ~ …2016年7月5日

 ご無沙汰しております。このひと月の間、何故か万事につけてモチベーションが極めて低下し、歩く粗大ごみ化していました。家人には周回遅れの五月病だと笑われています。梅雨も明ける頃だし、そろそろ復活といきましょう。

 さて、ハリス・バーディックという人をご存知でしょうか?彼は1950年代のある日、米国の児童文学出版社にふらりと現れ自作の出版を持ちかけます。14の物語を書き、挿し絵もたくさん用意したとのことで、サンプルとして各話一枚ずつを持参していました。それらの絵に魅了された編集者は、翌日残りの原稿を見せてくれるように約束して、その日は別れました。しかしバーディック氏が二度と訪れることはなく、編集者の手元には14枚の挿し絵だけが残ったのです。

 その挿し絵を複製したというのがクリス・ヴァン・オールズバーグの絵本「ハリス・バーディックの謎」です。パステル画特有の暖かさを持ちながらも、透明でどこかノスタルジックな絵によって描かれる不思議な世界。非日常の空間から切り取られてきたある瞬間。それに短い文章が添えられています。

 たとえば、日差しの明るい水際で水面を見つめる男の子と女の子。二人の視線の先には宙に浮いた小石がひとつ水に影を落としています。「七月の奇妙な日」というタイトルで「彼は思い切り投げた。でもみっつめの石は跳ねながら戻ってきた」と説明があります。

 また「七つの椅子」という話では、光が差し込む大きな教会というより聖堂の中空に、椅子に腰かけたシスターがひとり浮かんでいます。それを静かに見上げる二人の人物は東洋風の衣装を身にまとっていて、添え書きは「五つめは結局フランスでみつかった」とだけ。

 それ以外に何も説明はありません。全編この調子であとは読む者の想像次第。

 そういう訳で、たかだか30ページほどの絵本なのに、何時間でも楽しめる、しかも読むたびに新しい発見があるという類をみない一冊なのです。黒吉のマイ・フェイバリット絵本、殿堂入り(どんな殿堂?)。

 どっかのCMじゃないけど、これ以上何も引かない、なにも足さない、必要にして十分、というのがこの本の身上であると勝手に思っていました。ところが「ハリス・バーディック年代記」なる本が出てしまったのです。

 スティーヴン・キングコリイ・ドクトロウなど錚々たる面々が、それぞれの絵にまつわる物語を書き下ろしたアンソロジーです。まったく余計なことを!原著者は納得してるんかい?と目次をみると、あろうことか13話目の「オスカーとアルフォンス」は当のオールズバーグが書いてるじゃありませんか。

 とにかく、一度読んでしまうと、以後は原作絵本を開くたびに「年代記」のイメージが邪魔をすると思うので、せっかく大枚はたいて買った本なのに死ぬまで読むことはないと断言できます。それでも未練がましく、ときどき取り出しては序文だけ読んで、ため息とともに書棚に戻すという、お馬鹿な黒吉でありました。


(注)

・クリス・ヴァン・オールズバーグは米国の絵本作家。代表作は映画化もされた「ジュマンジ」Jumanji(1981)、「急行「北極号」」 The Polar Express(1985)など。なお、この2冊は米国図書館協会の選ぶ「カルデコット賞」の受賞作でもあります。多くの作品の邦訳を村上春樹さんが手がけています。

・「ハリス・バーディックの謎」The Mysteries of Harris Burdick(1984)の邦訳は河出書房新社 1990年。

・「ハリス・バーディック年代記 14のものすごいものがたり」The Chronicles of Harris Burdick:14 Amazing Authors Tell the Tales(2011)の邦訳も河出書房新社 2015年。

・ステキン先生はご夫婦で参加。奥さんのタビサ・キングが第1話「天才少年、アーチー・スミス」を、旦那が最終話「メイプル・ストリートの家」を担当。

コリイ・ドクトロウはカナダのSF作家、ローカス賞受賞作「マジック・キングダムで落ちぶれて」Down and Out in the Magic Kingdom(2003)(ハヤカワ文庫SF 2005)など。

・大枚はたいて…金2,500円なり(税別)。黒吉には大金!

・死ぬまで読むことはない…じゃ、何で買ったんだよ? だって、気がついたら買ってたんだもの。

・序文を書いたのはレモニー・スニケット。この人については「世にも不幸なできごと」シリーズ(草思社)または映画「レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語」Lemony Snicket's A Series of Unfortunate Events(2004) 参照。